毒麦のたとえ

このブログは勉強用。 毎日知識を学び、それを自分の言葉で表現して行く場だ。 毎日学び、毎日出力していく。いつかこの劣等感とも決別できるように。

タイムスケジュール

スケジュールを決めなくては、前に進めていくことができないんじゃないか、と最近思うようになった。

 

なぜ、スケジュールが必要か。

それは、自分が何をしたいのか、そのためには何が必要なのか、何に集中しなくてはいけないのか、といったことが、日々の生活の中で忘れてしまいがちになるからだ。

だから、集中して時間をとって、何かに捧げることができない。

日々読み返す習慣をつけなくてはならない。

 

目標の達成には、それを成し遂げたい鋼のような強い思いと、それを成し遂げるために必要なことは何かを知っておくことが重要であるということだ。

結局、本音で生きなければいけないということ。

あなたは何がしたいですか?

私はずっと働いていたいです。

何か一つの目標を掲げて、優秀な仲間たちと一緒に、盛り上げながら、ときには挫折をして、ときには悩み苦しんで、踠いて、自分はなんて無力なんだろうって思って、それでも出来るところから一つ一つ成長をしていって、出来るようになって、その喜びを仲間たちと一緒に分かち合いたい。

 

目標を成し遂げることで、達成感を感じたい。

そして目標は、公的な善と結びついているものでなければならない。

 

私は、もともと指揮者になりたかった。

高校時代は毎年全国大会に行くような吹奏楽部でバリトンサックスを吹いていた。

入ったときは同期でも1番下手だったけど、半年で、同期から信頼を勝ち得て指揮者になれるまでに成長した。

その過程は楽しいものだった。尊敬する先輩に師事をして、その教えを忠実に守り、かつその先輩を追い越せるように、自分に足りないものは何かを徹底的に考えて、練習計画を作り、それを毎日こなしていった。

最初は全く伸びなかったけど、ある時点からどんどん成長していった。そして、サックスパートの同期全員から信頼を勝ち得て、次には他のパートの同期からも信頼を勝ち得ることができた。

本当に音楽に狂っていたと思う。でも、あれだけ一つのことに狂えた期間が、人生で半年だけでもあったことは、とても素晴らしいことだったと思う。

 

指揮者になったのは、意識の高く、優秀なみんなと最高の音楽を作りたかったからだ。優秀といっても、まだまだ伸び代のある仲間たちで、だからこそ、どうやってみんなを伸ばすか、それを考えることも楽しかった。

夢中だった。音楽は、やっている過程も楽しいし、成果を発表をして喝采を受けることもまた楽しい。

そしてコンクールの時は死ぬほど怖い。だけど、この思いが届け、と願いながら、一切の迷いなく演奏に集中する5分間は、何よりも代え難い5分間なのだ。

 

おそらく、指揮者になりたい、という思いの底には、素晴らしい音楽を届けて誰かに喜んでもらいたいという思いがあったんだろうと思う。

自分はこれだけ素晴らしい音楽を、頭の中に思い浮かべることができる。

これだけ素晴らしい音楽なのだから、誰かと共有したい。願わくば、共有したら喜んでほしい。違うと思うのならば、きっぱりと言って欲しい。

 

そんな思いがあったからこそ、指揮者という職業を心の底から熱望したのだと思う。

だからこそ、半年で、全国クラスの同期よりも上手くなれたのだと思う。

 

素晴らしいアイデアを誰かと共有すること。

それによって、誰かに喜んでもらうこと。

もちろん、素晴らしいアイデアを思いついて、それを表現している自分は唯一無二の存在であると、認めてもらいたいとも思っているだろう。

けれども、それ以上に誰かを喜ばせたい。

そんな思いが人一倍強いのが、私なのではないのかと思う。

 

私の原点はエンターテイナーなのだ。

イデアとそれを伝えることで、人に感動を与える人に私はなりたかったのだ。

 

そして、色々な仕事をしてきたから今だからこそ分かる。

私は、大きなアイデアを仲間たちと実現させて、公的な問題を解決し、世の中の不条理を一つでも取り除きたい。

不条理の中でも、弱者がさらに虐げられる仕組みや、善良な人がたった一つの基準から測られて落伍者の烙印を押されてしまうこと、世代間の格差などは、私が嫌だと思うことだ。

 

基本的に、人間は、悪事をのぞく、どんなことをしていても、それほど差がないと思う。

仕事ができる人も、できない人も、それは納める税金は変わってきたりするかもしれないが、でも、そんなに根本的に代わりはないのだと思う。

善良で人を幸せにする人であれば幸福に生きていたっていいじゃないか?

周りに害ばかり成して、協調もせず、弱みにつけ込んで弱者をいびり倒すようなやつは、例えそれが優秀なビジネスマンであっても、社会的に尊重すべきだとは思えない。

生産性と、生存が直接的に結びついたこの世界は、まだ完全な世界とは言えない、と思う。

もちろん、誰かに愛されるように生きろということではない。

自分を見つめて、自分の本心を見つめて、それで持って行動をし、それで持って人を幸せにすべきなのだ。

人を自分と同じように尊重することができない人間は、社会にとって必要なのだろうか。

 

人の幸せは、私が決められることではないのかもしれない。

それでも、不条理なことは世の中にはたくさんある。

テロ、差別、医療費が膨れ上がり世代間の社会保障が脅かされているという事実、様々なハラスメント、戦争、一度躓いたら立ち上げることができない構造を持った社会

だからこそ、ベーシックインカムという制度を実現させることに、心の底から熱い想いが湧き出てくるのだろう。

医療費を1%でも減らすというミッションを掲げている会社にも、同じように熱い共感を感じうるのだろう。

データ化が進み、一度金融事故を起こすと、他の会社に共有され、お金を借りたり、パスポートが作れなくなったりと、社会からはじき出されてしまう社会に進んでいることに嫌気が指すのだろう。

 

私は、アイデアを出し、実現させ、問題を解決さセルタイプだ。